なぜ他の宗教を捨てなければならないのか

釈尊は、一代経の究極きゅうきょくである法華経に、

「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」

                (方便品第二・開結一二四)

と仰おおせられるように、今まで説いてきた方便の教えを捨てて無上むじょうの教えである法華経を最高唯一ゆいいつのものとして説かれました。そしてさらに、

 「余経の一偈をも受けざる有らん」

                 (譬喩品第三・開結三一六)

と戒いましめています。

 末法においては御本仏日蓮大聖人が建立こんりゅうされた南無妙法蓮華経の仏法こそ文底本因もんていほんにん妙みょうの法華経といって究極中の究極であり、すべての仏ぶつ菩薩ぼさつをはじめ全世界の民衆みんしゅうを根本から成仏じょうぶつさせる無上最高の真実しんじつの法ほうなのです。

 したがって真実の一法以外はすべて方便の教えであり、これを権教ごんぎょうともいいます。権ごんとは〝かり〟の意で、権教とは実教じっきょうに対する言葉です。

 人がもし〝かり〟の教えを真実のものと信じこんでその通とおりに実行したならばどうでしょうか。月収げっしゅうが来月から十倍になるという仮定かていの話をまともに受けて浪費ろうひをしたら家計かけいはどうなるでしょうか。権教を信ずる人は、現実と遊離ゆうりした架空かくう仮定の人生を歩あゆむことになるのです。

 さらに日蓮大聖人は、

 「『了義経(りょうぎきょう)に依って不了義経(ふりょうぎきょう)に依らざれ』と定めて、経の中にも了義・不了義経を糾明して信受すべし」(開目抄・新編五五八)

 

と教えられています。了義経とは完全かんぜん無欠むけつな教えであり、不了義経とは不完全な教えの経典きょうてんのことで、日蓮正宗以外の宗旨しゅうし、宗派しゅうははすべて不了義経に当あたります。

 どの宗教も一見もっともらしいことを説きますが、要するにうわべの言葉よりも何なんの経をよりどころとしているのか、教理きょうりが完全なものであるか、という点がもっとも大事なのです。一部分にありがたいことが説かれているからといっても、教理が不完全な宗教は、ちょうど外見がいけんも設備せつびも立派であるが、エンジンが故障こしょうしている飛行機ひこうきのようなものです。このような飛行機に「良いところもあるのだから」といって、あなたは乗ることができるでしょうか。

 また、正しい教え以外の宗教を「覆相ふそう教きょう」といいます。これは真実の教えを覆おおいかくす教えという意味で、不完全な宗教は正しい仏法を覆いかくし、迷わせる働きをするゆえにこれを除のぞかなければならないのです。

 ここを大聖人は、

「今の時は権教即実教の敵と成る」

                  (如説修行抄・新編六七二)

と仰せられています。

 人々を救おうとする仏の真実の教に敵対てきたいする不完全な宗教は、人間を生命の奥深おくふかいところから迷わせ苦しめるものですから、これを悪法あくほうとも苦の因いんともいうのです。

 大聖人は、

 「悪法世に弘まりて、人悪道に堕ち、国土滅すべし」(頼基陳状・新編一一二九) と説かれ、悪業による果報として、

 

  (1)周囲しゅういの人々から軽蔑けいべつされる

  (2)みにくい姿に生まれる

  (3)粗末そまつな衣服いふくや食たべ物ものしか得えられない

  (4)財産ざいさんを求めて努力しても得られない

  (5)貧まずしく下賤げせんの家や邪よこしまな家に生まれる

  (6)不慮ふりょの災難さいなんや事故に遭あう

  (7)人間としての苦しみを常に味わう

 

と教えられています。

 このように日蓮正宗以外の宗教は、人間を苦悩くのうの底につき落おとす悪法であり、仏の真意しんいに背そむく権かりのものであり、人々をたぶらかす不了義経なのです。まさに薬に似にた毒薬どくやくというべきでしょう。

 釈尊は、

「但虚妄(こもう)を離るるを名づけて解脱(げだつ)と為す」

                       (譬喩品第三・開結一七三)

 

と説いています。真実の幸福は、虚妄こもう(いつわり)の教えを捨てて正法に帰依きえすることによって得えられるのです。