どの宗教が正しいのか自分でたしかめてみたい

 現在日本における宗教しゅうきょう法人ほうじんの総数は、十八万三千四七一あり、法人格ほうじんかくを持たない宗教団体を含ふくめると二十二万七千余もあるといわれています。(平成九年 宗教年鑑調査による)

 これほど多くの宗教を、実際じっさいに自分の目で善悪ぜんあくを確たしかめたいといってもそれは不可能ふかのうなことです。

 またそのなかで仏法の教えは特に難信なんしん難解なんげであり、体験たいけんの世界でもありますから、私たちがただ頭で宗教の正邪せいじゃを理解しようとしても、十年、二十年、または一生涯いっしょうがいを費ついやしてもできることではありません。結局けっきょくはどの宗教が正しいのかもわからず、信仰の道に入ることもできないでしょう。

 たとえば川を渡ろうとする人が橋の手前で、この橋はいつ、誰だれが作ったのか、材料はなにか、今までこわれたことはないか、などと詮索せんさくし続けて、結局向う岸に行いきつくことができなかったという話があるように、すべてのものごとに対して、理解し納得なっとくしなければ信用しないという人は、一日たりとも生活できなくなるでしょう。

 時には批判ひはんし、詮索せんさくすることも必要ですが、元来がんらい仏教に限かぎらず、すべて宗教は信ずることから始まります。

 法華経には、

「信(しん)を以って入ることを得たり」(譬喩品第三・開結一七五)

 

とあり、日蓮大聖人は、

 「仏法の根本は信を以て源とす」(日女御前御返事・新編一三八八)

 

と教示されています。

 

  また大聖人は、

 「有解無信(うげむしん)とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解(うしんむげ)とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」(新池御書・新編一四六一)

 

と説かれて、たとえ仏法の教義を理解できる人であっても、信ずる心のない人を救うことはできないと教示され、さらに、

 

 「法華本門の観心の意を以て一代聖教(いちだいしょうぎょう)を按ずるに菴羅果 (あんらか) を取って掌中に捧ぐるが如し」(十法界事・新編一七六)

 

と仰おおせられ、真実の仏法を信ずるとき、一切の宗教の浅深せんじんは、あたかもたなごころを見るように明らかになるのであると説かれています。

 正しい御本尊を信受しんじゅし修行しゅぎょうすることによって、あなたの真実を求め、見きわめる力は、より正しく発揮はっきされ、人生に大きく役立ってゆくことでしょう。