日蓮正宗の信仰

南無妙法蓮華経

 日蓮正宗 正しい信仰と宗教より抜粋


「主無く、親無く、救無く、護無く、趣無く、貧窮飢困ならん」

釈尊は涅槃経というお経の中で、信仰のない人のことをこのように説いています。信仰というと、なにか堅苦しいイメージをいだいてしまう人もいるかもしれません。しかし、信仰とは私たちが人生を送るうえで、欠かすことのできない大切なものなのです。お釈迦さまは今からおよそ3000年前にたくさんの教えを説かれました。

それからお釈迦さまが経典に説かれた予言の通りに、末法という争いや苦しみの耐えない時代が訪れました。

そして、あらゆる世界の人々を救うために、日蓮大聖人さまは750年前に日本に出現されました。大聖人さまは、お釈迦さまの説かれたお経の中で、最も大切な法華経の真髄(肝要)である三大秘法の南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を弘められたのです。その教えは、私たちの生きている世界からかけ離れた遠いところにあるものではなく、私たちの身近なところにあって、どのような心をもって生きていけば本当の幸せを築いて(きずいて)いけるのか、などの答えを正しく教えてくださっています。あなたが大聖人さまの教えに興味を持ち、また、自ら本当の幸せをつかんでいこうと望むならば、日蓮正宗の信仰の話に耳を傾けてください。人それぞれ抱えている悩みや問題が違うように、信仰の目的も人によって少しずつ違います。

信仰がなぜ必要かといえば、自らの人生を切り開いていくためでもあります。

 

誰にでも悩みはあり、まったく問題のない人などいないのではないでしょうか?

例えば、今の悩みが解決したと思っても、直ぐに別な問題や新たな悩みが発生したという経験をされた方も多いと思います。

その悩みが原因となって、時には生きることすら苦しいと感じてしまったこともあるかもしれません。

日蓮正宗の信仰は、悩みや問題を真正面から受け止めて、それを乗り越えていける自分になれるか。また、その抱えていた悩みを糧として自分自身をさらに成長させていけるか、という考え方、つまり前向き(ポジティブ)な生き方を教えてくれる信仰です。

自分が変われば、相手も変わります。そして、自分を取り巻く環境も必ず変わっていきます。

先ずは自分自身が変わることを学んでいくことが大切です。

私たち自身が力強く自分の人生を切り開いていくために、生命力(生きる力・心の力)を養っていくことができるのが真実の信仰なのです。

 

正教と邪教

 

宗教には正教と邪教があるのです。 

 なぜ人は信仰し、宗教を求めるのかと問う時、ある人は神仏に守ってほしい、ある人は願いを叶えてほしいといい、またある人は先祖の冥福を祈りたいなどとさまざまな答えがかえってくると思います。

  現在日本だけでも何十万という数の宗教がありますが、そのなかには、合格祈願のための神社をはじめ、水子供養専門の寺院とか、虫封じの神社があるかと思えば“とげ抜き地蔵”なるものまで、多種多様の宗教があります。

  また信仰する対象も、同じキリスト教でも十字架を拝むものや聖書・マリア像・キリスト像を拝むものなどさまざまですし、仏教でも釈尊像を拝むものや、大日如来(だいにちにょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)、薬師如来(やくしにょらい)などの仏や、観音、弥勒などの菩薩、あるいは大黒天、弁財天などの天界の神を祭るものなど、宗派によって多岐に分かれています。

  もし宗教が単に気休めや精神修養のための手段ならば、それはちょうど音楽の好きな人が名曲を聞き、読書家が名作を読んで心をなごませることと同じでしょう。またそれならば、どの宗教によって、どのようなものを拝んでも、その人その人の好みによればよいということになるかもしれません。

  でも少し考えてみて下さい。私たちが生活する上で、無関係なものや無縁のものからは生活に直接影響を受けませんが、身近なものや、信用したものは、その善悪、真偽、正邪によって大きな影響を受けることになり、それが人生の指針にかかわるものや、人命に関するものであればなおさら大きな力として影響を受けることになります。

  たとえば、進学や就職、結婚などは誰でも慎重に選択するでしょうし、日常生活でも乗物や食べ物あるいは医薬品などは、より信用できるものを選ぶものです。その選択の基準として、自分の経験や、道理の適否・実験の結果 ・保証の有無・他者の評価などを考慮したうえで、できる限り、よい価値を生ずるもの、すなわち満足できるものを選ぶのではないでしょうか。

  これと同じように、宗教もそれぞれ本尊が異なり、教義もさまざまですが、日蓮大聖人は、

  「小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(高橋入道殿御返事・新編八八七)

と仰せのように、三毒強盛の末法の衆生には、真実の教えである妙法蓮華経の大良薬を与えるべきことを教示されています。

  釈尊も法華経において、

  「唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し」(方便品第二・開結一一〇)

と説かれ、仏になる道はただ法華経以外にないことを明かされています。

  いいかえると、この経文は一乗の法すなわち法華経以外の教えは、真実の教法ではないとの意味です。  このように、宗教には正邪の区別があることを知らなければなりません。

 

どの宗教が正しいのでしょうか

 

どの宗教が正しいのか自分でたしかめてみたい 

現在日本における宗教法人の総数は、十八万三千四七一あり、法人格を持たない宗教団体を含めると二十二万七千余もあるといわれています。(平成九年 宗教年鑑調査による)

  これほど多くの宗教を、実際に自分の目で善悪を確かめたいといってもそれは不可能なことです。

  またそのなかで仏法の教えは特に難信難解であり、体験の世界でもありますから、私たちがただ頭で宗教の正邪を理解しようとしても、十年、二十年、または一生涯を費やしてもできることではありません。結局はどの宗教が正しいのかもわからず、信仰の道に入ることもできないでしょう。

  たとえば川を渡ろうとする人が橋の手前で、この橋はいつ、誰が作ったのか、材料はなにか、今までこわれたことはないか、などと詮索し続けて、結局向う岸に行きつくことができなかったという話があるように、すべてのものごとに対して、理解し納得しなければ信用しないという人は、一日たりとも生活できなくなるでしょう。

 時には批判し、詮索することも必要ですが、元来仏教に限らず、すべて宗教は信ずることから始まります。

  法華経には、

  「信(しん)を以って入ることを得たり」(譬喩品第三・開結一七五)

とあり、日蓮大聖人は、

  「仏法の根本は信を以て源とす」(日女御前御返事・新編一三八八)

と教示されています。

 

また大聖人は、

  「有解無信(うげむしん)とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解(うしんむげ)とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」(新池御書・新編一四六一)

と説かれて、たとえ仏法の教義を理解できる人であっても、信ずる心のない人を救うことはできないと教示され、さらに、

  「法華本門の観心の意を以て一代聖教(いちだいしょうぎょう)を按ずるに菴羅果 (あんらか) を取って掌中に捧ぐるが如し」(十法界事・新編一七六)

と仰せられ、真実の仏法を信ずるとき、一切の宗教の浅深は、あたかもたなごころを見るように明らかになるのであると説かれています。

  正しい御本尊を信受し修行することによって、あなたの真実を求め、見きわめる力は、より正しく発揮され、人生に大きく役立ってゆくことでしょう。

正しい宗教とは

 

正しい宗教とはなにか

  もっとも正しい宗教としての条件は、

第一に教主が宇宙の真理と人間の生命の実相を完璧に悟った方であること

  第二に教義が因果の道理に基づいたもので、それが経典として誤りなく表記されていること

  第三に本尊が全人類にとって尊崇に値するものであり、現実に即したものであること

  第四に信仰修行の規範が普遍的で社会的人道的通念に反しないものであること

  第五に信仰によって得られる利益が教説に適っており、表面的一時的なものでなく本質的永続的な利益であること

などを挙げることができます。

  第一の教主の悟りについていえば、数多い宗教のなかで、宇宙の実相と人間生命を深く観達し、適確に説き尽くした教えは仏教に勝るものはありません。キリスト教の教主イエスやイスラム教のマホメットなどは神の子とか神の使徒として絶対神を説きましたが、彼らは神の啓示を受けたというだけで、過去に何を修行し、いかなる道理によって何を悟ったのかはまったく不明です。その教義内容も生命の本質に立脚したものでなく、戒律によって表面 的な言動を規制し、奇跡と空想を説いているにすぎません。

  その点仏教は教主釈尊の因行と果徳を明らかに教示し、五十年間の説法を通して宇宙の真理と人間生命の実相をあらゆる点から完璧に説き尽くしています。釈尊が成仏した根本の一法とは、久遠元初というこの世の最初の時代に、我身がそのまま大法界の真理の当体なりと悟られた自受用報身という仏様の教えであり、この久遠元初の仏様が末法に日蓮大聖人として出現されたのです。

  第二の教義の正当性と経典については、釈尊の説いた仏典は数多く現存し、その内容もすべて道理に適ったものですが、その究極が法華経です。この法華経の予言通 りに末法の御本仏として日蓮大聖人が出現され、一切衆生を救うために命におよぶ迫害のなかで南無妙法蓮華経の七文字を説きました。この南無妙法蓮華経は諸仏成道の根本原因の仏法であり、教義の面 からも、功徳の面からも釈尊の法華経より、はるかに勝れたものです。大聖人はこの大仏法を広く人々に説き示すために厖大な量 の御書を書き遺されています。

  第三の本尊については、本尊とは、“根本として尊崇すべきもの”の意味で、少なくとも人間として誰もが尊敬するに値いするものでなければなりません。世の宗教のなかには、キツネ(稲荷)、ベビ(竜神)、ワニ(金毘羅)などの畜生を拝むものや、先祖供養に名を借りて亡者の霊を本尊とするもの、仏としての悟りを得ていない菩薩や天上の神などを本尊とするものなどがありますが、これらは最上至尊の本尊ではないのです。またいかに立派な神や仏を立てても、それが架空のものであったり、空想上のものであっては、貴重な人生を托する本尊としてはきわめて頼りなく、危険なことというべきです。

  久遠元初の仏である日蓮大聖人が、

  「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事・六八五) と仰せられて、御身に備わる一切の悟りと大功徳の力をそのまま図顕遊ばされた本門戒壇の大御本尊こそもっとも尊く勝れた御本尊なのです。

  第四の信仰修行についていえば、宗教のなかには修行として、山にこもったり、断食をするもの、神札や守り札を貼っておけば修行は一切必要ないというものなどさまざまです。また戒律宗教などの教えを現実生活の中で堅持しようとすると、さまざまな支障をきたしたり、非常識な行為になることもあります。日蓮正宗の信仰は教条的に現実生活上の行動を規制するものではなく、日常生活の中で日日、御本尊を信じ礼拝し唱題することが基本であり、誰でも支障なく信行に励むことができるのです。

  第五の信仰による利益については、大聖人が、

  「道理証文よりも現証にはすぎず。」(三三藏祈雨事・新編八七四) と仰せられるように、現証は宗教を判定するうえでもっとも大切なことです。

  さらに大聖人は、

  「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべし」(諌暁八幡抄・新編一五四三) とも、

  「南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(九郎太郎殿御返事・新編一二九三) とも仰せられています。すなわち、日蓮正宗の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、諸天善神に守護され、未来永劫にくずれることのない仏の境界を築くことができるのです。

  現在、日本国内のみならず全世界において、正宗信徒が飛躍的に増加し、歓喜にみちて仏道修行に邁進しています。

  日蓮正宗の仏法が世界でもっとも正しい宗教であることを、全世界の人々に理解される日もそう遠いことではないでしょう。

 

日蓮正宗の信仰と利益

 

日蓮正宗の信仰には、なぜ利益があるのか

   天台大師(てんだいだいし)は、利益と功徳について、

  厳密にいえば、功徳とは自ら積むものであり、利益とは他から与えられるものという違いはあるが、仏道修行による得益の相からいえば、その意義は同一である(法華玄義巻六取意)、といわれています。

  したがって、ふつうは利益のことを功徳といってもさしつかえありません。

  妙楽大師(みょうらくだいし)の弘決には、

  「仮使(たとい)発心真実ならざる者も正境(しょうきょう)に縁すれば功徳猶多し」

といわれるように、日蓮大聖人が顕わされた一閻浮提総与の大御本尊には、仏様が一切衆生を救う仏力と、あらゆる災いを除いて人々を幸福に導く法力が厳然と納められておりますので、これに縁する者は大きな功徳を積むことができるのです。

  御本尊を拝しますと左の御かたに「有供養者福過十号(うくようしゃふくかじゅうごう)」としたためられています。

  十号とは、仏様の尊称で、如来・応供(おうぐ)・正偏知(しょうへんち)・明行足(みょうぎょうそく)・善逝(ぜんぜい)・世間解(せけんげ)・無上士(むじょうし)・調御丈夫(ちょうごじょうぶ)・天人師(てんにんし)・仏世尊(ぶっせそん)のことですが、これについて大聖人は、

  「末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給ひて候。これを妙楽大師は福過十号とは書かれて候なり」(法蓮抄・新編八一三)

と仰せられ、法華経の行者日蓮大聖人の当体である御本尊を信仰し供養する者の功徳は、仏典に説き示されている生身の仏を長い間供養するよりも百千万億倍勝れ、その無量 の智慧と福徳は仏の十号にもまさると説かれています。

  したがって仏力・法力の功徳は、他から安易に与えられるものではなく、御本尊に対する信力・行力を磨くことによって、はじめて積むことができるのです。

  ふつう“ご利益”というと、お金が儲かったり、病気が治ったり、願いごとが叶うなどの目前の現証だけを考えがちです。このような今世の利益も大事ではありますが、仏様はすべての生命は今世だけのものではなく、過去・現在・未来の三世にわたって永遠不滅なるがゆえに過去世の罪障を消滅し、今世のみならず未来永劫にわたって清浄な幸福境界を確立することが真実の利益であると教えられています。

  日蓮大聖人は功徳について、

  「功徳とは六根清浄の果報なり。(中略)悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳とは即身成仏なり」(御義口伝・新編一七七五)

と仰せです。六根とは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の生命の識別作用の器官をいい、それが清浄になるとは、六根に備わる煩悩のけがれが払い落とされて清らかになり、ものごとを正しく判断できる英知が生まれることなのです。

  したがって正しい御本尊を信ずるとき、煩悩はそのまま仏果を証得する智慧となり、生命に内在する仏性はいきいきと発動し、迷いの人生は希望に満ちた楽しい人生に転換されていくのです。

  これを即身成仏の境界というのです。

  正しい信仰を知らない人は、この六根が無明の煩悩におおわれて、人生に対する判断に迷い、とりかえしのつかない過ちを犯すことが多いのです。

  このように日蓮正宗の信仰は、人間の生命を根本から浄化し、英知と福徳を備えた幸福な人生を築くものですが、その利益は個人の人間に止まるものではありません。

  大聖人は依正不二という法門を説かれています。依とは、私たちが生活するこの国土をいい、正とは、私たち人間のことです。この法門は、人間の思想や行動がそのまま非情の国土世界に反映するという“不二”の関係にあることを明かしたものであり、国土の災害や戦乱・飢餓を根本的に解決し、悠久の平和社会を実現するためには、正報である人間が清浄な福徳に満ちた生命に転換しなければならないことを示したものです。

  私たちが三世にわたって即身成仏の境涯を築き、しかも国土を平和社会に変える方途は、日蓮正宗総本山大石寺に厳護される本門戒壇の大御本尊を純真に拝し、弘宣していく以外にはないのです。